三島由紀夫の愛した美術

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青年像とロココ趣味

宮下 「芸術新潮」の「青年像」という企画で取り上げた作品二点を見ましたので、他の六点についても順次見てゆきましょうか。

佐藤 そうですね。「円盤投げ」(闘志)、「馭者像」(勝利)の次は……。

宮下 「苦悩」と題してミケランジェロの「瀕死の奴隷」を挙げています(図17)。ミケランジェロの天井画には興味のなかった三島ですが、この奴隷の彫刻については高く評価している。ルーヴル美術館にあります。

井上 これも、苦悩が直接現われず、むしろ抑制されている点に、三島は注目しているようですね。ただ、三島はルーヴルには一回しか行っていないようで、メモなども残っていないし、これを実見したかどうかわかりません。

宮下 ルーヴルで、この瀕死の奴隷にまで辿り着くのは並大抵のことじゃありません。たいていの人は、ミロのヴィーナスを見つけたあたりで力尽きちゃう(笑)。三島も実際には見てないんじゃないかな。
 次は、やはりルーヴルにあるティツィアーノの「手袋をもつ男」(図18)。「理智」と題されています。三島は理知的な明晰さに惹かれたんでしょうか。ティツィアーノについては、ヴァチカンの絵画館で「聖ニコロ・デ・フラーリのマドンナ」を見た時に、これについてはゲーテが『イタリア紀行』で大絶賛しているので、付加えるべき言葉を自分は持たないと述べています(『アポロの杯』)。ゲーテが誉めたものは一応見ておかなきゃいけないという意識が、三島にもあったんですね。逆に、ベルニーニやカラヴァッジョのように、ゲーテは触れず、ゲーテ以後に評価の高まった人については、三島は一言も書いていない。ベルニーニの「聖テレサの法悦」などはセバスチャンの女性版とも言え、興味を示しても良いように思うんですが、この辺に自分の芸術眼に対する臆病さのようなものを感じます。

井上 ティツィアーノといえば、三島はローマのボルゲーゼ美術館では「神聖な愛・異端の愛」(「聖愛と俗愛」、図19)を絶賛していますね(『アポロの杯』)。

宮下 これはボルゲーゼの至宝です。ただ、この絵はボルゲーゼの一番奥まった特別室のような所にあって、否が応でもこれが至宝だって感じさせられるんですよ。

井上 なるほどね。面白いのは、三島は正面の花嫁と女神には大して言及せずに、背景の細部の美しさについてばかり触れていることです。同じボルゲーゼ美術館で、ラファエロの「一角獣を抱ける婦人像」より「男の肖像」(図20)を誉めていることとも通じますね。

宮下 やはり、女性にはあまり関心がないのかな。「神聖な愛・異端の愛」を置いてある部屋に、たいていの人は無視するような「聖アントニオ【魚族/いろ/くず】に説く」というヴェロネーゼの絵がありますが(図21)、三島はこれも誉めていて、ちょっと意外な感じがしました。

佐藤 魚に説教する聖人の絵ですね。

宮下 それほど良い絵ではないですけどね。画面の半分を占める暗緑色の海が、心に触れたのでしょうか。魚に説教するという西洋には珍しい画題や、宗教画の多い中で珍しく海景を描いている点が関心を惹いたのかもしれません。海といえば、三島はズッキの「海の宝」という絵も誉めています。これもボルゲーゼにありますが、優雅な感じで、三島のロココ趣味を満足させたのかもしれません。
 ロココといえば、カピトリーノ美術館にはヴェネチアにあるヴェロネーゼの「エウロペの略奪」(図22)の複製があるんですが、三島はこれも誉めています。

井上 ヴェロネーゼは16世紀のルネサンスの画家ですよね?

宮下 そうですが、享楽的でロココ的なんです。これはギリシア神話でゼウスが牛に変身してエウロパという女性を誘拐する場面ですが、画中の人物は当時のヴェネチアの貴族の格好をしている。

井上 三島の好きなロココ趣味ですね。

宮下 一方、私が専門にしているカラヴァッジョは、カピトリーノ美術館にも「洗礼者ヨハネ」のような有名な作品があるんですが、三島は一言も触れていません。これには、当時日本ではカラヴァッジョについてほとんど紹介されてなかったとか、ゲーテの『イタリア紀行』に出てこないとか、いくつか理由がありますが、もう一つ言えるのは、三島はリアル過ぎるものが好きじゃないんです。カラヴァッジョは明暗の対比を強調したり、庶民を画面に出したりすることで、対象をリアルに描き、近代リアリズムの始祖と言われるんですが、三島はそういうものが好きではなかった。

井上 なるほど。ギリシア彫刻の均衡、抑制と秩序、構成美に対する愛着と、ロココ趣味とがどう繋がるのかというと、リアリズムではないという点で繋がるんですね。

宮下 ただ、血みどろのものを扱ったリアリズムは好きだ。後でまた触れますが、ここにはまた、別の指向が働いているんですね。

佐藤 三島はワトーの「シテエル島への船出」を絶賛していますが(図23、「芸術新潮」昭29・6)、これはロココ美術の傑作ですね。

宮下 そうです。「シテエル島への船出」論は三島の美術評論の中で、一番長いものではないですか?

井上 そうですが、最近の研究では、この絵は「シテエル島からの帰還」を描いたものだというふうに解釈が変わったんじゃないですか?

宮下 いや、また元に戻ったんです。愛の島から帰って来てしまったら、お話は終わりじゃないですか(笑)。やはり、これから出かける方が絵になる。
 ロココとは、ちょうど芝居がそのまま外に出たような、現実を描いていながらすべてが舞台の上であるような世界です。三島はこういう世界に、エロチシズムということとは関係なしに、純粋に絵画として強く惹かれている。ところが、三島は同じ評論の中で、ジェリコーの「メデューズ号の筏」(図24)は芝居がかっていて不快だと言っています。筏に乗った人たちが、助けを求めて手を振っている有名な絵ですが、ジェリコーはカラヴァッジョの強い影響を受けた画家なんですよ。

佐藤 じゃあ、三島はカラヴァッジョも嫌いなんだね。

井上 カラヴァッジョやジェリコーの明暗の対比や大胆な構図は、生々しいという意味でリアルなんですね。しかし、三島に言わせれば大仰過ぎる。逆に、ワトーの絵やギリシア彫刻は、芝居じみていたり様式化されているように見えるけれど、三島はかえってそこに裸の生が溢れているのを感じたわけですね。

佐藤 ギリシア的な影のない晴朗さは好きだが、明暗の強い対比は嫌いなのかもしれません。

宮下 ただ、ベラスケスの「バッカスの勝利」(図25)はカラヴァッジョ的なリアリズムの絵ですが、三島はこの絵については「青年像」で取り上げて、「安逸」というタイトルを与えています。冠を授ける青年のちょっと冷たい表情に、三島は惹かれたのかな。

佐藤 私はこの絵を見て、ああ、三島は衰えているんだなと思ったんですよ。三島はここには、肉や快楽の充溢の裡にある青春が描かれている、生は完全に蕩尽されている、と書いていますが、こんな風に若さを対象化できるのは、既に三島が衰え始めているからではないか。そんな気がしますね。

宮下 三島が「青年像」を書いたのはいつ頃ですか?

井上 昭和42年の1月です。

宮下 じゃあ、佐藤さんの仰る通りかもしれませんね。
 「青年像」の残りの絵を見てしまいたいんですが、ルドヴィコ・カラッチ(1555〜1619。ボローニャで活躍した画家。カラッチ一族はラファエロ、ミケランジェロらの様式を取捨選択した折衷主義を創始し、バロックへの道を開いた)という画家の「聖セバスチャンの殉教」(図26)。このセバスチャンは「何糞ッ」という表情で矢に抵抗している。運命を受け入れてうっとり天を見上げるグイド・レーニの絵とは対照的です。

井上 三島は「悲壮」というタイトルを付けていますね。こういうポーズは珍しいですか?

宮下 そう。セバスチャンの身体を下から見上げるように描く構図も珍しいです。ローマのドーリア・パンフィーリ美術館にあります。それから、ダヴィッドの有名な「ナポレオンの肖像」(図27)。「英雄」というタイトルを付けていますが、単なる力強さではなく、不安と情熱と悲劇的運命が浮彫されているという指摘が印象的です。最後の八点目は、モローの「若者と死」で(図28)、タイトルは「憂鬱」です。

井上 これは世紀末的ですね。

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