1海雲山 寿徳寺境内「三浦環墳墓」
1988(昭和63)年3月、山中湖村教育委員会によって「歌姫三浦環を偲ぶ」の記念碑が墓碑の右手に建立される。
2013(平成25)年4月、山中湖村指定文化財となる。
三浦環について
三浦環について
日本初の国際的オペラ歌手として活躍した三浦環は、1884(明治17)年東京に生まれました。東京音楽学校で声楽を学び、帝国劇場などの舞台や、レコードの吹込で活躍した後、1914(大正3)年、夫・政太郎の留学に伴って渡欧、イギリスでプッチーニ《蝶々夫人》に主演し大成功を収めます。
翌年アメリカに渡り、以降世界各地で演奏活動を行いました。環の可憐な歌声と、日本舞踊を基礎とした舞台上での所作は、各地の聴衆を魅了し、プッチーニ本人には「私の理想の蝶々さん」と評されたほどでした。
1935(昭和10)年に帰国後、演奏活動の傍ら後進の指導にも力を入れ、1946(昭和21)年に亡くなるまで、日本声楽界の支柱であり続けました。その功績をたたえて創立された静岡国際オペラコンクールは、若きオペラ歌手の登竜門として、多くの優れた人材を世に送り出しています。
三浦環と山中湖
1944(昭和19)年、東京に迫る戦禍を避け、環は母を伴い長田源長氏の離れ屋(山中湖村平野地区)に疎開します。山中湖では、同じく疎開していた原智恵子(ピアニスト)、川添浩史(プロデューサー)、仲小路彰(思想家)、山元桜月(画家)、気賀麗子(画家)といった旧知の文化人と、湖の北岸に位置する「ママの森」の料亭に集って交流したほか、村の人々とも親しく付き合い、婦人会や子供たちに歌を教えたといいます。 没後、「富士山が見えるところで眠りたい」という遺言により、環は母・登波と共に平野の寿徳寺に葬られ、墓所は現在村の指定文化財となっています。環が早朝から湖畔に立ち発声練習していたという逸話に因み、2023(令和5)年2月、山中湖交流プラザきららに銅像が建立されました。また、環が山中湖で愛用していたヤマハ製アップライト・ピアノは修復を経て、再びその音色を楽しめるようになっています。
三浦環ゆかりの地
資料の利用について
村では、文学館を拠点として三浦環に関する資料の収集、保存、活用に努めています。所蔵資料は、環の疎開先から譲渡された資料がほとんどです。資料の中には、ピアノや着物などの愛用品や、写真アルバムなどがあります。さまざまな分野の研究等に活用していただければと思います。
収蔵資料データベース(準備中)
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