GREEN PARK

山中湖文学の森公園(グリーンパーク)

Introduction

山中湖文学の森公園(グリーンパーク)は約26,100坪を有し、多くの樹木、山野草、野鳥などが棲息する自然豊かな公園です。園内には三島由紀夫文学館、徳富蘇峰館、俳句の館風生庵、蒼生庵、情報創造館の文化施設があり、自然と文学のどちらも楽しむことができます。また、散策路が木立を縫うように続き、山中湖にちなんだ句碑、歌碑(レプリカ)が点在して、俳句、短歌愛好者や自然に親しむ人々の散策コースにもなっています。季節ごとに、色とりどりの山野草が咲き、自然観察、バードウォッチング、ウォーキングなど、自然を身近に体験できる公園です。

園内の句碑・歌碑紹介

1.富安風生句碑

露涼し 朝富士の縞 豪放に

富安風生とみやすふうせい(本名・謙次) 1885―1979
愛知県生まれ。大正・昭和期の俳人。
東大独法科を卒業後、逓信省に入り、1937年(昭和12年)逓信次官にて退官。1918年(大正7年)福岡在任時代、俳句の道に入り、東大俳句会に参加。1928年(昭和3年)「若葉」の選者となり、のちに主宰した。1929年(昭和4年)「ホトトギス」同人。1953年(昭和28年)山中湖村旭日丘の山荘(落葉松荘)に避暑。以来、山中湖でひと夏を過ごすようになり、地元俳人の指導、育成に貢献した。

2.富安風生句碑

湖うかび すすきに沈む 荘の屋根

3.富安風生句碑

女とは 母とハ 安産まつりかな

4.富安風生句碑

馬に敷く 褥草にも 萩桔梗

5.富安風生句碑

赤富士に 露滂沱たる 四邊かな

6.三浦 環歌碑

聲 うたひめは つよき愛国心を 持たざれば 
真の芸術家とは なり得まじ

三浦環みうらたまき 1884―1946
東京生まれ。明治・大正・昭和期のソプラノ歌手。
1930年(明治36年)7月、東京音楽学校在学中(現・東京芸大)、日本最初の歌劇に主演。同校助教授、帝劇歌劇部のプリマドンナを経て、1914年(大正3年)渡欧し、1922年(大正11年)に帰国。再びアメリカに渡り、1935年(昭和10年)の帰国までに、日本人初の国際的プリマドンナとして、欧米各地で2000回の公演を行った。太平洋戦争末期、山中湖に疎開した環は山中湖平野の寿徳寺に母と共に眠っている。

7.高浜虚子句碑

選集を 選みしよりの 山の秋

高浜虚子たかはまきょし(本名・清) 1874―1959
愛媛県松山市生まれ。明治・大正・昭和期の俳人、小説家。
伊予尋常中学のときに正岡子規と文通。仙台第二高等中学中退後、子規の俳句活動に参加。1898年(明治31年)「ホトトギス」を引き継ぎ、子規の写生主義を継承した。1940年(昭和15年)に虚子は山中湖に山荘を建て、句会や月例会を開き、地元の俳人との交流も行われた。

8.万葉集歌碑

富士の嶺の いや遠長き 山路をも 
妹がりとへば けによばず来ぬ

9.松尾芭蕉句碑

山賤の おとがひ閉づる むぐら哉

松尾芭蕉まつおばしょう(本名・宗房) 1644―1694
三重県生まれ。江戸時代前期の俳人。
俳諧師・北村季吟に師事。1677年(延宝5年)に宗匠となり、職業的な俳諧師となる。1680年(延宝8年)に深川に「芭蕉庵」を結ぶ。1682年(天和2年)の大火で庵を焼失。翌年、甲斐国谷村藩(山梨県都留市)の家老・高山伝右衛門に招かれ、逗留。1689年(元禄2年)、弟子の曽良と一緒に「奥の細道」の旅に出立。わび、さび、軽みなどの蕉風で俳聖と呼ばれる。

10.前田夕暮歌碑

富士颪 ひょうびょうと 吹き凍りたる 
湖のもなかに 波青くあがく

前田夕暮まえだゆうぐれ(本名・洋造) 1883―1951
神奈川県生まれ。明治・大正・昭和期の歌人。
歌人・尾上柴舟おのえさいしゅうに師事し、明治末期の自然主義歌人として活躍。1906年(明治39年)白日社を創立。「向日葵」(ひぐるま)を創刊。1911年(明治44年)「詩歌」を創刊。昭和初期の新興自由律短歌運動に情熱をかけ、自ら口語自由律短歌を作り、「詩歌」をその拠点とした。

11.金子光晴詩碑

五つの湖が ふじをめぐる 山中湖は鶺鴒 
霧のなかのかるい尾羽

金子光晴かねこみつはる(本名・安和) 1895―1975
愛知県生まれ。大正・昭和期の詩人。
中学生のときに古今の文学作品を読み、作家を志す。21歳頃から詩作を始め、1919年(大正8年)『赤土の家』を自費出版。同年、渡欧し、ヴェルハーレンやボードレールに傾倒する。帰国後、『こがね虫』を出版、詩壇に認められる。その後、東南アジア、欧州を妻・森三千代と放浪。1937年(昭和12年)『鮫』を出版、批判的リアリズムの視点から軍国主義を批判した。1943年(昭和18年)山中湖平野村に疎開。

12.富安風生句碑

あはあはと 富士容あり 炎天下

13.与謝野晶子歌碑

富士の雲 つねに流れて 
つかの間も心 おちゐぬ 山中湖

与謝野晶子よさのあきこ(本名・鳳しょう) 1878―1942
大阪府堺市生まれ。明治・大正・昭和前期の歌人、詩人。
1901年(明治34年)に第1歌集『みだれ髪』を出版。奔放な愛の情熱と官能をうたい、社会的反響を呼んだ。同年、鉄幹(寛)と結婚し、晶子の浪漫的な歌風は「明星」の主流となった。また、渡欧以後、婦人問題、時事問題の評論、小説、童話、古典研究など多方面に活躍した。

14.伊藤左千夫歌碑

夕ぐれの 三ヶ月のうみ 雲しづみ
腕しづまりぬ 妹に逢ひし夜は

伊藤左千夫いとうさちお(本名・幸次郎) 1864―1913
千葉県生まれ。明治期の歌人、小説家。
1885年(明治18年)上京、牛乳店で働く。1889年(明治22年)に搾乳業を営むかたわら、茶の湯と短歌に関心を深める。1900年(明治33年)に正岡子規に師事し、写実的手法を学ぶ。根岸短歌会の主要同人として活躍。子規没後、「馬酔木あしび」「アララギ」を通じて、指導的立場にあった。

15.富安風生句碑

庭として 花野を湖へ かたむくる

16.富安風生句碑

赤富士に 露の満天 満地かな

17.羽田岳水句碑

富士かげる 月に鳴きつぐ 青葉木莵

羽田岳水はだがくすい
1918年(大正7年)1月14日山梨県生まれ。1936年(昭和11年)教職と共に作句するも中断。1951年(昭和26年)水原秋櫻子の「馬醉木」に拠る。1965年8昭和40年)「馬醉木」同人。1956年(昭和31年)「燕巣」創刊同人。1986年(昭和61年)「燕巣」主宰。俳人協会名誉会員・大阪俳人クラブ顧問。

18.保坂伸秋句碑

一天を 占めて富士あり 朝桜

保坂伸秋ほさかのぶあき
1920年(大正9年)、神奈川県横浜市生まれ。
富安風生に師事。「岬」主宰。俳人協会評議員。神奈川県大和市在住。

19.鈴木貞雄句碑

赤富士の やがて人語を 許しけり

鈴木貞雄すずきさだお
1942年(昭和17年)、東京都生まれ。
慶應義塾大学経済学部、同大学院文学科修士課程卒業。大学在学中より俳句に志し、清崎敏郎に師事。第14回俳人協会新人賞受賞。現在、「若葉」主宰、俳人協会理事。

20.清崎敏郎句碑

うすうすと しかもさだかに 天の川

清崎敏郎きよさきとしお
(本名・星野敏郎)1922―1999
東京都生まれ。昭和・平成期の俳人。慶応大学文学部卒。
昭和15年に病気療養中に俳句を始め、富安風生が選者を務める読売俳壇の選に入り、それをきっかけに風生に師事。父の知人高浜年尾からも学び、年尾を介して虚子に会い、その後教えを乞う。自身の母校慶応風生の死後、風生の意向に沿い「若葉」の主宰を継承。
独自の写生的な俳句を確立し、花鳥諷詠派の第一人者として活躍した。