三島由紀夫は様々なジャンルで才能を発揮し、教養の幅も広く深い。私の場合、三島作 品に親しむことを通じてはじめて教えられた事柄は限りがないのである。しかし、音楽に 関しては、三島はそれほど強い関心を抱いていたわけではなさそうだ。そう私は考えてい た。「からっ風野郎」を歌ったとか、「軍艦マーチ」を指揮したとかいうことはあるが、あ くまでも面白いエピソード以上のものではあるまい。だから、映画「憂国」がDVD化され たときも、私は作品のモチーフや映像、演出の特徴については考えたが、特にそれ以上考 え進めようとはしなかった。
ところが、何人もの人から、「『憂国』のBGMはワグナーの『トリスタンとイゾルデ』で すね。どうしてこの曲を選んだのでしょう? あの音源は何でしょうか?」と尋ねられた 第一の問いに対する答えは、「死において男女の愛が完成するというテーマにおいて、相通 じるところがある」ということだろうが、第二の問いについては、「よくわからないのです ……」としか言いようがなかった。三島はこの点について何も語っていない。映画「憂国」をツール映画祭に出品する際、三島が報道用に書いたメッセージがあるのだが、そこにも 「1936年の78回転の古いレコード」としか記されていないのである。
考えてみれば、「トリスタンとイゾルデ」は全曲演奏すれば四時間近くかかる。一方映 画「憂国」は三十分程度で、そこには「トリスタンとイゾルデ」のエッセンスを凝縮した ような音楽が使われている。これは「トリスタンとイゾルデ」そのものではなく、巧みに 編集された何ものかなのだ。実にピッタリのレコードがあったものだな思う一方で、こん な風に編曲してしまって「トリスタンとイゾルデ」の生命を消してしまうことにはならな いのか、という気もした。ここには、追究すべき問題が潜んでいるようだ。だが、音楽に 詳しくない私はそこから先に考えが進まず、立往生してしまった。
しかしあるとき、「三島全集」をともに編集した山中剛史さんから、ドナルド・リッチー のTHE JAPAN JOURNALSという分厚い英文の日記に、「憂国」の音源のことが出ている と教えられた。それによると、レオポルド・ストコフスキーという指揮者の手になるもの でフィラディルフィア管弦楽団の演奏だという。なぜリッチー氏が知っているかと言うと、無声の「トリスタンとイゾルデ」の適当なレコードがないかと問われて、三島にストコフスキーを教えたのは、リッチーその人だったからだ。
そこでストコフスキーのCDをネットで探してみた。彼が編曲した「トリスタンとイゾルデ」が見つかったので早速聞いてみたが、映画「憂国」のBGMによく似た雰囲気のものは確かにあったものの、まったく同じものは入手できない。この辺の事情に詳しい人はいないだろうか。そう考えた私には、以前、雑誌「音楽現代」に三島由紀夫と音楽というテーマで評論を連載されていた宇神幸男さんのお名前を思い出し、思い切って宇神さんに連絡を取ってみた。そして「憂国」のBGMはストコフスキーの「トリスタンとイゾルデ」でしょうか、ストコフスキーとはどういう人物で、その「トリスタン」にはどんな特色があるのでしょうか、といったことを尋ねたのである。
宇神さんとはそれまで面識はなかったのだが、「そのことは最近も『音楽現代』に書きました。やはりストコフスキーでしょう」と、たいへん丁寧に私の質問に答えてくださった。また、インターネットの吉之助さんのサイト「歌舞伎素人講釈」や山崎浩太郎さんのサイト「はんぶるオンライン」でも、この問題が論じられているとのことだった。
私は宇神さんに、「トリスタンとイゾルデ」に限らず、三島と音楽との関わり全般についてお話を伺いたいと考え、私が勤務している白百合女子大学の大学院でのセミナーをお願いしたところ、快くお引き受けくださった。今年(2007年)七月に開催されたセミナーはたいへん刺激的で面白く、その内容は多岐にわたるが、編集して近く活字に起こす予定である。こういう問題を、きちんと追究している方が、やはりいらっしゃるのだ。三島と音楽とは、あまり縁が無いように思っていたが、そこには興味をそそるテーマが、いくつも潜んでいたのだった。
井上隆史(三島由紀夫文学館研究員)