三島由紀夫の愛した美術

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セバスチャン殉教図の意味するもの

佐藤 ずいぶん昔、私が20代の半ば頃は、『仮面の告白』におけるセバスチャンの絵自体を、あまり目にすることが出来なかったんです。カピトリーノ美術館の三本の矢の方は、本多秋五の『物語戦後文学史』に写真が収められていたのでよく知られていましたが、『仮面の告白』をよく読むと、「二本の矢」と書かれていて、おかしいなぁと思っていた。そこで、東京芸術大学で当時助手をしていらした森田義之さんに L'opera completa di Guido Reni という本を見せてもらうと、パラッツォ・ロッソ所蔵の絵が出ていて、その矢は二本なんです。それで、パラッツォ・ロッソから、グイド・レーニのセバスチャンの絵の写真を直接送ってもらった。これを見ると、間違いなく矢は二本で、三島は本当に正確に描くんだなあと、思ったわけです。
 その矢ですが、左の脇の下と右の脇腹に刺さっていると、『仮面の告白』には書いてあります。これは、絵に対面して右、左を言っているのではなく、セバスチャンの側から右、左と言っている。それで、はっと思ったのは、これは要するにオナニズムなんじゃないか、ということです。つまり、自分がセバスチャンに自己同化している。セバスチャンは対象ではないわけです。ですから、『仮面の告白』でホモセクシャルについて告白されているということは、対象と自分との関係が書かれているのではなく、対象に同一化しようとする欲望が書かれているということだ。そんなことを、まだ大学院の修士課程にいる頃に論文に書きました。
 今日は色々なセバスチャンの絵を見せてもらいましたが、やはりグイド・レーニは、セバスチャンの身体、胴の部分を描きたかったんだろうな、と言いますか、絵というよりも彫刻を思わせるような肉付き、厚み、肩を描いていて、三島がこれに芸術的な審美眼ではなくエロチックな眼差しを向け、この絵に魅かれていたのは当然だろうなという感想を持ちました。

井上 佐藤さんの『仮面の告白』論は、セバスチャンの絵を実証的に確かめたばかりか、そこに留まらず、作品における絵の意味についても鋭く論じていて、ああ、こういうことを研究する人がいるんだ、凄いなあ、と衝撃を受けた記憶があります。
 佐藤さんの論文のおかげで『仮面の告白』の主人公が見る絵が、パラッツォ・ロッソの二本の矢のセバスチャンだということがはっきりした。これは、三島の親父さんがヨーロッパに出かけて、その土産の画集の中に収録されていたものらしい。昭和12年頃のことです。そして、『仮面の告白』の記述を信ずるならば、これを見てはじめてマスターベーションをする。そうだとすると、最初に宮下さんが言われたように、三島はこの絵を芸術作品として鑑賞するというよりも、そこに自分のエロチックな関心を向けていたように見える。

宮下 三島は、自分のエロチックな趣味として好きなのに、その作品が芸術的にも価値が高いと無理矢理言おうとするところもあって、彼の美術論には時々齟齬が出てくるんですよ。

井上 だから、三島の話は辻褄が合わなくなる場合がある。しかし、パラッツォ・ロッソの二本の矢の絵が良いと言っているのは、芸術的な見方としても卓見だったということになりますか?

宮下 このパラッツォ・ロッソの絵に関しては、三島の見方は適切です。しかし、グイド・レーニのほかの絵についても、三島はローマでたくさん見ている筈ですが、これらについてはなんら関心を示していません。そもそも、レーニをルネサンス末流という範疇で捉え、バロック美術としての特徴を充分に理解していないようにみえるのは残念ですね。当時のわが国の美術史的教養の水準に照らしてやむをえなかったとも言えますが。

井上 やはり芸術的な審美眼としては、あまりバランスが良いとは言えないんでしょうね。それにしても、日本では矢が二本の絵は、あまり知られていませんでしたね。

宮下 日本ではパラッツォ・ロッソの絵は紹介されていなかったと思います。でも、西洋ではかなり有名ですよ。先ほど言ったように、オスカー・ワイルドもジェノヴァのこの絵を見ていて、やはり同性愛者のシンボルのような意味があります。セバスチャンの絵を見てはじめてマスターベーションをするというのは、三島だけじゃなくて西洋では少なくない話だと聞いたこともあります。矢は男根の象徴だし、この絵で性に目覚める同性愛の少年は、たくさん居るんだと。そういえば、Suddenly, Last Summer という戯曲がありますね。

井上 テネシー・ウィリアムズの作品ですね。映画にもなっていますが、三島は酷評していたと思います。

宮下 そうですか。でも、あの戯曲で母親と恋人との二人から愛される男性の名前が、まさにセバスチャンなんです。実は彼は同性愛者で、映画では、亡くなった彼の部屋に飾られたセバスチャンの殉教図が、巧みな演出的効果を挙げています。三島没後では、エイズで死んだ同性愛者の監督デレク・ジャーマンの「セバスチャン」という映画があります。それぐらい、欧米では同性愛とセバスチャンの結びつきは強い。

井上 しかし、セバスチャンの殉教図はジャンルとしては宗教画ですね。たとえばグイド・レーニの絵に対する教会の考え方は、どのようなものだったんでしょうか?

宮下 グイド・レーニ自身は信心深い画家でして、これはつまり殉教の愉悦を描いているんです。キリスト教徒にとっては、殉教で死ぬということは天国に行くことですから、その顔も苦痛に歪んでいるというよりも、うっとりとした法悦状態で天を見上げているべきだ。図1のグイド・レーニの絵も、そのような殉教図として、教会から推奨されるようなものでした。

井上 それが同時に、同性愛的なポルノグラフィとしても機能したわけですね。

宮下 ただ、グイド・レーニは、セバスチャン以外にはホモエロチックな絵を残していませんし、生涯独身で通しましたが、同性愛者だったという記録も残っていません。だから、この絵の持っている性的な意味を意識していたとは考えにくいですね。しかし、この絵がエロチックな興味から好まれたというのは、よくわかる。たとえば図1は、さきほど佐藤さんが言われたように、非常に胴体ががっちりしている。三島が扮装した篠山紀信の写真と比べると、はっきりするでしょ。

井上 それは三島にちょっと酷だ。

宮下 でも、どんなにボディビルで鍛えても、グイド・レーニの絵と比べると貧弱ですよ。これに対して、図1は人間離れした逞しい体型で、ところが顔は少女のよう、少年のようなんですね。体は成熟しているのに、顔はあどけなく、うっとりしている。このアンバランスがなんとも言えないエロチックな魅力を放っている。

井上 上を向いている目線が、また良いですね(笑)。

宮下 そうなんです。図3のソドマのセバスチャンも、上を向いていますね。実は、この絵は、グイド・レーニの絵とは違って戦後間もなくから日本でもよく知られていて、『仮面の告白』に出てくる絵は、グイド・レーニではなくてソドマの絵のことではないかと思っていた読者もいたらしいですよ。

佐藤 そうでしたか。『聖セバスチァンの殉教』の巻頭のカラー写真は、グイド・レーニではなく、ソドマなんですね。しかし、三島はこの絵の実物は見ていない。
 ところで、このダヌンツィオの霊験劇では、ディオクレティアヌス帝もセバスチャンを射る射手も、セバスチャンを美しい青年として愛しているという設定になっていますが、そんな言い伝えがあるんでしょうか。また、絵の中にそういう話を読み取ることもできるんですか?

宮下 これはダンヌンツィオの創作で、言い伝えられていることではないですね。セバスチャン伝として一番よく読まれているのは、13世紀にヤコブス・デ・ウォラギネという人が書いた『黄金伝説』です。最近平凡社ライブラリーから新版が出ましたが、その第一巻に収められています。しかし、そこにもそういう話は一切出てきません。むしろ、ローマの近衛兵の隊長だったセバスチャンが、部下やディオクレティアヌス帝にキリスト教の教えを説くという場面が描かれています。

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