三島由紀夫の愛した美術

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『仮面の告白』の主人公は同性愛者ではない?

佐藤 グイド・レーニのセバスチャンについて、その顔は少女、少年のようだという話がありましたが、この表情は無垢というものを表していて、その体が逞しいということは、エロチックな興味を刺激するというより、むしろ『黄金伝説』に描かれるようなセバスチャン像を純化、聖化するものではないか。こう考えたりもするんですが、そういう見方については、どう思われますか?

宮下 それは成り立つと思いますね。16世紀末からカトリック諸国では新教との対抗から反宗教改革運動が起こった。そういう信仰の文脈において、佐藤さんの言われるような見方が、実際にあったと思います。

佐藤 その見方をさらに進めて、この絵は、まだ深い経験などない若者が、何かを直感的につかんでしまったところを描いている。それはエロチシズムということとは、また別の問題ではないか。そんな風にも思うんですが。

宮下 なるほど。オスカー・ワイルドの詩「キーツの墓」では、セバスチャンとジョン・キーツという夭折した詩人が重ね合わされていますが、そういうところに、エロチシズムというより無垢、純潔を読み取るという見方ですね。

井上 ただ、純潔さや聖性とエロチシズムとは、必ずしも矛盾しませんね。日本の中世の稚児崇拝などを考えても、聖なるものが、同時に性なるものでもある。しかし、『仮面の告白』の主人公のセバスチャンとの出会い方は、純潔や聖性というより、もっと生々しく生臭い。小説の記述通りだとすれば、三島は12、3歳頃に、この絵を見てはじめての射精を経験する。幼年期において、既に後年の彼を暗示する幾つかのカードが出揃っているわけですが、セバスチャン体験によって、それがはじめて具体的な生理現象と結びつくわけです。

佐藤 しかし、それは三島由紀夫の問題としては問えない。本当に三島がそういう経験をしたのかということは、決定的にわからないわけですから。また、作中人物の問題としても、セバスチャンとの出会いを同性愛と結び付けてあまり特化してはいけないし、そもそも主人公は同性愛者ではないのかもしれない。実は私はこの頃、そういうことを考えてみたんです。

井上 最近お書きになった論文ですね(「自己を語る思想―『仮面の告白』の方法―」、「国語と国文学」平18・11)。

佐藤 『仮面の告白』には、主人公が男性同性愛者となるまでの過程をたいへん順序良く論理的に書いてある。しかし、これはある視点を定めて、そこから整理して書くということであって、その視点こそ、同性愛者という仮設的アイデンティティではないか。なぜ、「仮設」なのかと言えば、『仮面の告白』の園子という女性は主人公にとって非常に大切な女性で、彼女に対する主人公の感情は、「同性愛」ということでは処理できないにも拘わらず、「主人公は同性愛者である」という視点をフィクショナルに固定化しているからです。これこそ、「仮面」ということの意味ではないのか。
 また、フランスの精神科医ラカンによれば、患者が語る過去とは、現在から整理された過去ではなくて、自分が話し終えた時点で自分が他者からどのように承認されるかということを見越して、いわば「前未来形」で語られた過去だという。「前未来形」というのはフランス語の時制で、「私は明日の午後、この地をもう発っているだろう」というような表現です。すると『仮面の告白』の過去も、語り終える未来の時点から見られた過去であって、では、主人公がどのような「承認された自分」を目指しているかと言えば、単なる「同性愛者としての自分」である以上に、「大切な女性として、園子への思いを抱いている自分」というものではないかと、そんなふうに考えています。

井上 ただし、ラカンの議論というのは一種の原理論ですからね。そういう立場から言えば、私たちのあらゆる語りは「前未来形」ではないでしょうか。逆に、三島固有の問題は何かと言えば、佐藤さんの言い方を借りれば、サディスティックな同性愛者という仮設的アイデンティティを立てることが出来たということです。それは誰にでも可能なわけではない。すると、そういう仮面を被りうるということが、既に一つの宿命的意味を持っているのではないか。その重要なきっかけとなるセバスチャン体験の意味は、いくら誇張してもし過ぎることはない。もっとも、これは三島その人のこととしては問えないというのが、佐藤さんのお考えですね。

宮下 お父さんの土産だという画集の存在は確認されていないんですか?

井上 わからないですね。三島自身が12歳頃にセバスチャン体験を持ったということを具体的に裏付ける資料は、今のところない。そういう点から言えば、確かに佐藤さんのスタンスの方が手堅いとは思います。それでも、資料はないかもしれないですが、『仮面の告白』の射精の場面ですが、佐藤さん、あれを全くの作りごとだと思えますか。

佐藤 うーん、そうですね。三島の体験としてそういうことがなかったと言い切る方が難しいでしょうね。もちろん単なる直感ですが。

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